キャロル・オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩(うた)「みんなにいいことが起きる歌だから」

1939年ウクライナ、イバノフランコフスク(当時ポーランド領)。ユダヤ人が大家の建物にウクライナ人とポーランド人の二家族が引っ越してくる。子供たちはすぐに親しくなるが、親たちはぎくしゃく。ウクライナ人の娘は歌が得意で、幸せをもたらすといわれるウクライナ民謡を披露し、無邪気に食事会に招待する。それをきっかけに三家は和やかに交流していくが、戦争が暗い影を落とす…。

©MINISTRY OF CULTURE AND INFORMATION POLICY OF UKRAINE2020

原題 ЩЕДРИК

ЩЕДРИКはウクライナ語で、ラテン文字表記がShchedryk(発音がシュチェドゥリクと聞こえるから、たぶんそう)は伝統的なウクライナ民謡で、1916年ウクライナのバッハと呼ばれるマイコラ・レオントーヴィッチュが編曲したクリスマスソング『キャロル・オブ・ザ・ベル』として知られる。
英題はCarol of the bells、邦題は英題直訳+副題。なんで邦題ってすぐ副題付けたがるんだろう?

誰のための戦争なのか

三家族は戦争に翻弄されていくのだが、物語はウクライナ人家族の母ソフィアを軸に途中まで展開する。
ソフィアは音楽教師、夫は演奏家(足を悪くして除隊した過去)、娘ヤロスロワは歌が上手という音楽一家。ユダヤ人一家は娘ディナに音楽を教えてもらっていた縁があって越してきたよう。ポーランド人一家は夫が軍人ということもあって妻がピリピリしていたが、食事会をきっかけに娘テレサも音楽を習うことになり、三家族は和やかに交流していく。

親しくなるのは相手の人間性に好感を持つからであって、出自や民族は本当関係ないよなあと思う。目の前の相手に対する自分の感覚が信じられないから、その人の経歴や国籍といった情報に頼ってしまうのではないか。

「私の娘です」

まずソ連の侵攻により、ポーランド人が連行される。たまたまウクライナ人一家の部屋で眠っていた娘テレサはソフィに託される。そのときのソフィアの台詞がこれ。
その後、ナチスのユダヤ人迫害により、ソフィアはユダヤ人一家の二人の娘も預かることになる。

ソフィアにはただただ舌を巻く。人はそこまで寛容になれるのか、と。強いからだろうけれど、強くならざるを得ないソフィアに泣けてしまう
娘たちはみないい子。ユダヤ人長女は年長なので聞きわけよく、常にソフィアを助けようとしてる。
ポーランド人テレサは下がり眉が最後までずっと印象的だった。心細いのに弱音を吐かない。つい目で追ってしまう。
ウクライナ人のヤロスラワは抜群に歌が上手く、幸せをもたらすと信じてShchedrykを披露しまくる。本人はここぞという時に歌っているのだけれど、ドイツ軍人の前や、戦後収容されたソ連の施設でもそうなので、冷や冷やする。自分はいくつくらいから場を読むようになったのか、しばし考えた。

三十年後、N.Y.でコンサートが開かれ、成長した娘たちは再会を果たす。有名な歌手となり喝采を浴びているのはポーランド人のテレサで、ディナやヤロスラワの格好からも三人は全く違った人生を歩んでいることが分かる。だがとにかく生き抜いて今在ることを祝おう、そんなラストだった。

歌手がテレサだったのはびっくりした。てっきりヤロスラワだと思ってたから。本人がソ連のお偉いさんの前でウクライナの歌を誇らしげに披露してしまうというへまがあったとはいえ、戦争は才能を一つ埋もれさせてしまったのだな、と思った。だから猶更、例えどんな形でもヤロスラワには歌っていてほしい、と切に願う。

ウクライナはそこに在る、ということ

翻弄されるのは常に市民で、領土が接しているとその確率は更に高まっていく。今、この瞬間もウクライナは戦火にさらされている。
だが国土を侵攻し蹂躙しようとも、民族から文化は奪えない。思い出した一節がある。

小松左京『果てしなき流れの果てに』の一描写に、ヤップと呼ばれる民族が出てくる。二十一世紀半ば大地震と地質変動で日本列島は海底に沈み、祖国を失いさまよえる民となる。彼らが歌う単純なメロディがあって、それは君が代なのだが――『曲はもちろん、かなり変形され、もの悲しいものになっていた。(中略)その歌の背後に、このひと握りの人々は彼ら自身は知ることもなく、ただ父母や、祖父母、曾祖父母などからかたりつたえられた、失われた祖国の、山々や、緑の森や、都市や、フジヤマのことを描き出しているのだろう。(293頁から引用)』

Shchedrykも歌われる度にそこにはウクライナが在り、何者もそれを奪うことはできないのだ、と思う。

そして私たちは過去の戦争から何も学ばなかったのか?
人類はなぜ繰り返すのか?
その先には行けないのか?