それでも私は生きていく「病院にいる父よりも、書棚の方に父を感じる」

未亡人のサンドラは子育て、通訳の仕事、高齢の父を見舞うことに日々追われている。父は視力と記憶の欠落が進んでおり、目の前にいるサンドラが分からず、恋人のレイラばかりを恋しがる。そんなとき亡き夫の旧友クレマンと再会、虚しさを埋めるように恋に落ちる…。
主演のレア・セドゥは常にどこか寂し気な彼女の持ち味を活かしており、これまでで一番好きかも。

©2023 les films du Losange

原題 Un beau matin

仏語で意味は、ある朝。英題はOne fine morning。
哲学教師であった父ゲオルグは、神経の病だと判明すると記憶が失われていくことを恐れた。自身が壊れてしまう前に書こうとした自伝のタイトルが『ある朝』。
邦題は少し大仰な印象。それでも私は生きていくっていう程の気負いはなく、ただ淡々と人生が続いていく感覚に近い。

生命体としての原動力は愛一択なのかも

ゲオルグを取り巻く女性はサンドラの他に三人。
離婚した元妻:別のパートナーがおり、若者たちとデモに参加して逮捕されたりと、すでに別の人生を気ままに生きている。でも元夫を気にかけているのだから情がある方なのかな。
恋人ライラ:持病があるので彼の世話はできない。そのためゲオルグは施設送り止む無しということに。
もう一人の娘:サンドラ同様独立しており、できる範囲で父に関わっている。
多くは語られないので事情は分からないのだが、ライラはなぜもっと行動しないのだろう。私だったら、少しでもできることを何か考えて無駄にジタバタしそう。恋人ならせめてもっと顔を見せに行けばいいのに。

「ライラはどこだ」

病が進行し、自分がどこにいるのか何をしようとしているのかも分からないゲオルグは、ひたすらライラを恋しがる。ゲオルグは言う「自分には大切な人間が三人いる。自分とライラと…、三人目は誰だったっけな」ゲオルグ以上に、最も親身に世話しているのに認識されないサンドラが不憫で仕方ない。サンドラは見返りを求めているわけではないと思うが、それにしたって自分の存在があってないように扱われるのはやり切れないだろう。病室でサンドラは父に問う。

「私の髪は長い?短い?」

サンドラの髪型はベリーショート。
「うーん、長いような気がする」「短いのよ」そう答えるサンドラの表情がね…。見ているこちらがしんどくなる。帰りのバスの中、疲れ切った表情が窓ガラスに映り込む。そんなとき、距離を置くことにした恋人からメールが届く。

「君がいないと苦しい」

恋人クレマンは亡き夫の旧友で宇宙工学者(とかなんとか?)、知的で話も合うしサンドラを分かってくれる。ぴったりじゃない、と思ったら妻子がいた。どっちが先にキスをしたって初々しく言い合う場面があるんだけど、これサンドラからだったね、まあ恋愛が始まってしまえばどっちでもいいじゃない。さておき愛情が深まっていくうちに、関係は袋小路に。せっかく会っている時間も口論が絶えない。クレマンは提案する。「妻子と別れてから、また集合しよう」集合って会議か。お決まりの別れのパターンか、と見てる側は思う。まあでもここに至るまでのサンドラの態度がね、もう致し方なしっていう典型的な失敗していくパターンなのでね。で、そういう状況で来たのが、このメール。そういう人はそういうこと言ってくるんだよーと思う一方、うれしくて胸がいっぱいになって涙を浮かべるサンドラに、分かるよーって気持ちにもなる。サンドラにとってはクレマンの存在が光というか安らぎで、だからもういいよ全部もういいよって、サンドラの肩を抱いてあげたくなった。
実はこのクレマン、有言実行の男だった。経緯は描かれないがきっちり清算して再び「集合」したのであった。クレマンよ、ちょっと気持ちを疑ってた、ごめんよ。ラスト、サンドラと娘といっしょにゲオルグを見舞ったりしてすっかり家族のようだった。公園の池を三人で眺めている背中で映画は終わる。この終わり方、なんか好き。

「病院にいる父よりも、書棚の方に父を感じる」

今回一番印象に残ったのは、サンドラがゲオルグを施設に入れた後の部屋を片付けていて言う台詞。これは本当にそう思う。本棚ってその人の全てが表れると思う。映画の鑑賞履歴は公開できるのに、読書履歴ってなんか自分を曝け出すようで全公開はできないもの(別に知られて困る本を読んでいるわけではないぞ)。
ゲオルグの教え子たちに膨大な本を持って行ってもらったりするのだけれど、そのとき「書棚を残すことに意味がある」とサンドラは言う。それは父そのものだから。そして父を敬愛していたからこそ、変わりゆく父に心の奥底で対応しきれない。ゲオルグが自分の世話をしているサンドラを認識しないように、サンドラも目の前のゲオルグを無意識で父として認識していない(受け入れていない)のではと思った。ちょっと寂しいお互い様。

病が進行したゲオルグからは、彼が精力を傾けて身につけてきた知識がまずは抜け落ち、次に視力も低下して世界を判別できなくなり、更に身の回りのことも独力ではこなせなくなっていくが、それでも尚恋人の姿を求めて徘徊する。ゲオルグを突き動かすのは愛しかない。人間は玉ねぎの皮を剥くようにしていったら残るのは愛なのだろうか。それも家族という「情」ではなく、恋しい人への「愛」。一見解き放ちがたい絆のような情よりも、関係が切れたら簡単に途切れそうに見える愛の方が、実は力強くて連綿と続いていくことの不思議。サンドラもクレマンの愛を支えに(原動力と言い換えてもいい)父を失いつつあることを乗り切るのだろう。

運命論者ではないけれど、人と人が出会ったのには何かしら意味があると思っている。必要だから惹かれあうのだとも。相手の中に、今の自分に大切なものが映っているのかもしれない。そんなことを思った。

おまけ。シネスイッチ銀座にて初日にもらった別バージョンのフライヤー(映画チラシ)。こっちのレア・セドゥの方がポスターよりも数倍好き。