アラビアンナイト 三千年の願い「希望は怪物だ、私をもてあそぶ」
イスタンブール。講演のため訪れた物語学者アリシアは、バザールでガラスの小瓶を買う。ホテルの一室で小瓶を磨くと中から魔人ジンが出現する。「3つの願いを叶えてやろう」と言うジンに対し、アリシアはその手の話の顛末はたいていうまくいかないことを知っているため、なかなか願いを口にしない。願いを叶えなければ小瓶から解放されないジンは何としても願いを言わせようと、3000年に渡る自身の物語を語り始める…。
『マッドマックス 怒りのデスロード』のジョージ・ミラー監督の最新作。
色彩が美しい作品。アリシア演じるティルダ・スウィントンが観たかったので鑑賞。
原題 Three Thousand Years of Longing
邦題そのままで、三千年の願い。アラビアンナイト、はくっついてるけど。
ティルダ・スウィントンを堪能する
ファンタジーにあまり興味がわかないので普段ならスルーしてしまう作品なのだけれど、アリシア演じるティルダ・スウィントン見たさに劇場に行ってしまいました。彼女の造形からして神々しくて素敵なのですが「やりたいことをやり、好きな服を着て、自由に生きればいい。人生は本来そんなシンプルなもの」と何かで言っていて同じこと考えてる人がいるーって好きになりました。
昨年観た『ヒューマン・ボイス』でも感じましたが、彼女には鮮やかな色彩が似合い、作品全体も大変カラフルなのですが、その映像美のレベルを一段も二段も上げる力が備わっていると思う。
ですが、内容はジンが願いを言わないアリシアを翻意させようと、自分の過去の物語を3つ語るというパートが大部分を占めていて、それがデブばかりのハーレムの話とか全く興味が沸かない、むしろ見るのが苦痛な話だったりして何度寝落ちしたか分からないというね…。そんな感じで観ていたので、感想も片手落ちになるかなと懸念もするのですが、ざっくり残しておこうかと思います。
一人で充足しようとする人間を他人はなぜ許さないのか
アリシアはやりたい学問を追究し、その道で成功している。何不自由ない生活をしており、対人関係にも問題はなく、満ち足りているように見える。
耳慣れないが物語学とは古今東西の神話や物語の研究で、専門家である彼女は講演で次のようなことを語る。「物語は昔、天災や人知を超えることが起こったとき、それを収束させるためにあった。今は科学が取って代わっている」と。これはとても分かりやすい説明だと思う。たとえば雷が落ちたとき、昔の人は神様が怒っているとそこに物語を作ることで自らを納得させてきたということかと。
そしてまた彼女は、3つの願いの物語は大抵ハッピーエンドにはならないという認識を持っている。なので彼女はジンに請われても「願いはない」と言う。ここは本当は願いはあるけれど無意識で封印しているというか、幸せになれないのなら口にしても仕方ないという彼女の基本姿勢を現しているように感じた。常勝に見えるのは勝てる試合しかしないから、というようなね。
他の人が演じたならたぶん偏屈でしかない主人公を、ティルダ・スウィントンが演じることで全く別物に見せる。ティルダ・スウィントンの姿で恋愛には興味がないと言われたら、そうでしょうそうでしょう人間には興味ないですよね、と言いたくなるのです。
「私を愛して」
だからアリシアが、ジンの話を聞き終えた後で口にした願いがこれだったとき、心底がっかりしました。ジンの語った三つ目の物語の、ジンが愛した人間の癖が貧乏ゆすりとかアリシアと同じで、アリシアはその人の生まれ変わりかと思わせるシーンが多々あるのだけれど、結局行きつくのはそこなのか、と。私も愛は否定しないし、愛は強い原動力になると思う。愛にはいろいろな形があるだろうし、でもアリシアが願っているのは何て言うかいわゆる一般的な「恋人たち」の姿で、何だかなあって。ブルータスお前もか、って。隣につがい(できれば夫婦の形が良いとされる)の姿がない限りその人が幸せであると認めないのか、と。
その後、アリシアとジンは愛し合いロンドンの家に住まうのだけれど、イスタンブールと違って騒音や電磁波の飛び交うロンドンはジンの体質には合わずどんどん弱っていく。なのでアリシアはジンを解放し、その後ときどきジンはアリシアの前に現れて二人仲良く過ごす時間を持つような暮らしをしています、って感じで終わる。どんな過ごし方でも二人が満ち足りていればハッピーエンドだと思うけれど、果たしてジンは実在しているのか…というようなね、なんとも煙に巻かれたようなお話でした。
「希望は怪物だ、私をもてあそぶ」
そんな中で、唯一心に響いたのがジンのこの嘆き。“Hope is a monster, and I am its plaything"だったかな。でも私は希望に弄ばれてもいいと思う。希望が持てない人生は退屈そうだから。