バービー「軽く見てた、ごめん」

バービーランドは毎日がしあわせという完璧な夢の世界。様々なタイプのバービーたちがこれまた色々なケンたちとパーティーをしたりビーチで遊んだりして暮らしている。ある日、ステレオタイプのバービーが「死ぬってどういうこと?」とふと呟いたせいで、体に異変が起こり出す。修復するためには人間界へ行かねばならず…。

©2023Warner Bros. Ent.

原題 Barbie

バービー人形の名前、そのまま。
演じるのはマーゴット・ロビー。彼女は制作側で最初『ワンダーウーマン』のガル・ガドットを考えていたとか何かで読んだのだけれど、自身が適役だったと思う。

私はリカちゃんを持っていた。バービーは顔つきもファッションも当時の自分とはかけ離れていて心惹かれなかった。調べてみたらリカちゃんの設定は11歳でバービーは17歳なのですね。そりゃ遠い存在だ。

バービー人形には何の思い入れもなく、さらにライアン・ゴズリングがケンなんて老け過ぎではないかと思ったりしたのだけれど、監督がグレタ・ガーウィグ脚本も彼女とノア・バームバック共同だと知って観たくなった。『フランシス・ハ』が好きだったし。『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』や『レディ・バード』というこれまでの監督作から考えてもただの実写化では終わらないだろうってのもあった。

公開前の騒動について

一旦は観るのを止めようかとも思った。原爆については日本人なら誰しも思うところがある。夏休みには原爆写真展を見て感想文を書くという宿題が毎年あって、戦争の悲惨さについては小さい頃から考えてきた。
だからハリウッド映画で毎度安易に原子爆弾が使われる表現にはげんなりうんざりだし、とにかく被爆国とその他の越えられない溝のようなものを感じてきた。そしてそれは自分の中で方をつけるしかないものだと思ってきた。それを笑えるセンスが自分にはありえない、と。
一方で、なぜこれまでの映画は許せたの?と聞きたくなるような違和感を覚えてもいる。たとえば『キングスマン』に私は強い拒絶反応を覚えた。大量殺人の場面で一人ずつ頭の上でキノコ雲がポップな音楽と共にぽこぽこ描かれていったのだ、確か。みんな面白がっていて作品も高評価で心底げんなりした記憶がある。当時のブログには感想すら書く気にならなかったのが『キングスマン2』の感想でわかる。ちなみに2には拒絶反応は出なかった模様。

ほかにも、何かというと原子爆弾で解決しようとする展開も多い。だからなんちゃって日本描写と同じで受け取るこちら側が身構えて処理しないと、あちらの映画にいちいちけちをつけたら何も残らない。

あと創作物に関しては一旦作者の手を離れてしまったらどうにもならない、ということへの同情も少々あった。広告宣伝まで制御しきれない致し方なさというか、もどかしいところだけど”売る”ということが絡むとね…。全く、遣り切れないね。

というわけで予定通り劇場へ。
冒頭『2001年宇宙の旅』風に、ままごとで遊んでいた少女たちが巨大バービー人形の出現により手にしていた赤ちゃん人形を叩きつけぶっ壊し始める場面を見て、劇場に来てよかったーと思う。

「女は、女にも男にも嫌われている」

やはりただの実写化ではなく、ジェンダーに対する監督の主張が止まらない作品だった。
バービーは自分がいつだって主役のバービーランドから人間界へ行くのだけれど、そこで思いもしなかった気づきを得る。
自分は全ての少女たちに夢や希望を与える存在ではなく、嫌われてさえいるということを知るのだ。

美しい造形をしたまま様々なキャリアを持つバービーは、多くの女性の現実と乖離することで、女性たちをふて腐れさせる。そして現実で出世する女性たちを多くの男性は快く思わない。結果としてそういった一握りの女性は、多くの女性たち男性たちに嫌われることになり、生きづらくなる。
はー、うんざり。だけどこれが現実。

「何も考えないのって気楽でいい」

後半、人間社会で男社会に目覚めたケンがバービーランドを改革しようとするのだけれど、そのときキャリアバービーたちが男たちに尽くす場面が描かれる。そのときの台詞がこれ。
ちょっと極端な気もするけど、でも思考停止して誰かに従って生きていく方が楽って言いたい気持ちはわかる。頑張っても報われないなら、誰か一人のトロフィーワイフとして暮らす方が圧倒的に楽。ただ自分の力で人生を切り開こうとする女性にとってはしんどい選択だし、たぶんその道は断固拒否するだろうね。

酒井順子の『日本エッセイ小史 人はなぜエッセイを書くのか』を思い出す

先日読んだ本、酒井順子が『聡明な女性は料理がうまい』(桐島洋子)を取り上げた章で、聡明な女性がくそ意地を張って料理を頑張ってしまったから、その後の女性たちもくそ意地を張らなければいけなくなった”みたいなことを書いていて笑ってしまったのを思い出した。

これは70年代に一大ブームとなったエッセイ本で、当時はまだ男社会で頭角を現すには女性が何百倍も頑張らなければ認めてもらえない時代だったと思われる。

『バービー』は女性の役割の多さからくるしわ寄せが全て女性にきていることを、登場人物の台詞で直接言わせている。

さて、女性についてはステレオタイプで描かれることへの違和感や窮屈さは描かれるものの、一方で男性はステレオタイプで処理されていることが少々気になりもした。

”ビーチの人”=ケン

バービーのボーイフレンド(という位置づけでよいのかな。曖昧な長い関係と表現される)ケンはとにかく軽んじられている。
自分でも「僕はただのケン」と言うし、キャラクター設定としての職業もなくただ”ビーチの人”
ナレーションでも「ケンはバービーに見つめられた時にだけ幸せになれるのです」と説明されるほどバービーランドでは徹底的にバービーのアクセサリーの一つでしかない

ライアン・ゴズリングって『ブルー・バレンタイン』のイメージがいつまでもあって、ケンを演じるには老けすぎ&演技派過ぎるのではと思っていたが、振り切れた演技やぞんざいな扱いをされることへの哀しみがにじみ出ていて、能天気なケンで終わらないのがよかった。

「軽く見てた、ごめん」

だからバービーがラスト近くでケンに謝ったのはちょっとすっきりした、かな?
でもケンが「実は仕切るのは大変だった」的なことを言うのは、いらないような。全ての男性が無能であっても優遇されているわけではないし、そもそも能力というのは男女差ではなく個人差だと思う。

マイケル・セラとウィル・フェレルのおとぼけぶり

最後に。バービーのお友達設定のアランは一体だけしか作られていないという哀しみを帯びた存在。それも中年になったマイケル・セラが演じていて感慨深かった。久しぶりにスクリーンで見たな。

バービーをつくっているマテル社の社長演じるのはウィル・フェレルで、全員男性の部下たちとバービーを追いかけるシーンで社屋のエントランスゲートを社員証がないから出られないって右往左往するおとぼけぶりが『ズーランダー』を思い出してこれまた懐かしかった。