帰らない日曜日「私に傑作を書かせるために私の男はみんな死ぬの?」
原題はMothering Sundayで母の日。日本で言う藪入りで、英国で奉公人が実家に帰省することができた自由な日。
1924年のその日、メイドのジェーンは孤児なので帰る家もなく、数年来の秘密の恋人ポールとの逢引に向かう。ポールは良家の跡継ぎで目前に幼馴染との結婚を控えている。もとより結ばれるはずのない身分違いの二人の恋だったが…。
予告かチラシを見て気になったので原作となった小説を先に手に取りました。
原作との違いや気になったことが多く、感想がずれにずれ込んで今に至る。読了日3月24日、鑑賞日6月23日。ここまでくると記憶違い勘違いも多々ありそうだけど備忘録として。公開終了してかなり経つので、内容に触れています。
振子時計が二時をうった。彼がもう死んでいることを彼女はまだ知らなかった。
いきなり内容に触れるような文章ですが、原作小説で一番好きだったのがここ。『マザリング・サンデー』を読んでいて、この一文(二文ですが)で今までの世界を反転させる破壊力があった。それまでは既視感があるような、どうせ身分違いの恋物語でしょうよと高を括っていたのに、ドカンとやられる。もうそれを知った後は、知らなかった頃には絶対、絶対に戻れないのだというくらいの深い境界線が引かれる。
そんな衝撃の一文だった訳ですが、当然ながら文章そのままを映像にはできないので、これをどうやって映像化するのか、にとても興味がありました。
原作は短編だったっけ?というくらい遠い記憶なのだけれど、カズオ・イシグロ絶賛とやたらアピールされるので途中までカズオ・イシグロ原作と勘違いしてた。これ、同じような人多いんじゃないかしら。著者はグレアム・スウィフト。
主人公とその周辺
〈二ヴン家〉ビーチウッド邸
当主(コリン・ファース)が図書室の出入りを寛大に許可してくれたおかげで、主人公ジェーンはメイドながら身近に常に本がある世界にいられた。二ヴン家の息子二人は戦死。
〈シェリンガム家〉アプリィ邸
ジェーンと秘密裏に関係を続けているポールは、シェリンガム家の三男。兄二人(ディックとフレディ)は戦死し、跡継ぎとなる。
〈ホブディ家〉
娘のエマはポールの幼馴染で婚約者。結婚を控えている。元は二ヴン家の息子と交際していた。
上流階級である仲の良い三家は戦争で息子たちを筆頭に次々に所有していた諸々を失い、喪失感や虚無感が立ち込める。それでもなんとかして後世に繋いでいこうとした流れにポールとエマとの結婚がある。
彼らは常になくしたものに思いを馳せ、憂えており、とても脆弱な印象を受ける。
一方、労働階級に属するジェーンはポールとの関係を長く続けているものの、その恋に夢を見たりせず、観察者として淡々と自分を俯瞰している。ポール亡き後、メイドを辞め、書店員として働き出しのち作家となる。自分の人生は自分で切り拓くという力強さを感じる。
晩年大作家として受賞インタビューをされて遠い日を思い出すという構成。なので時系列としては1924年ポールの死(メイドのジェーン22歳)、1948年ドナルドの死(作家のジェーン46歳)、1980年代大作家となった現在、の3パートにざっくり分かれる。
お気に入りの台詞とともに、振り返っていきたい。
「私に傑作を書かせるために私の男はみんな死ぬの?」
さきほどさらっと書いてしまったのだが、作家になったジェーンがつきあっているのが哲学者で黒人のドナルド。本屋で知り合ったのだったか。パートナーとしてよい関係だった二人だが結婚を前にドナルドは病に倒れてしまう。そのときの台詞がこれ、映画での一番のお気に入り。
なのだが。このシーン、原作で全く記憶がないのだ!なんでー?
「一つ目は生まれたとき。二つ目はタイプライターをもらったとき。三つ目は秘密」
ドナルドに作家になったきっかけについて聞かれたときのジェーンの答え。
三つ目は電話が鳴った時かなあ。
あのマザリング・サンデーの逢引はジェーンにとって特別だった。当日ポールはエマたちとの昼食会の予定があったのだけれど、勉強を理由に遅刻を決め込み、両親の留守(先に昼食会に向かった)をいいことにアプリィ邸にジェーンを呼びつける。メイドもいない留守宅にジェーンは正面玄関から招待され、ポールは丁重に扱ってくれる。存分に抱き合ったあと、ポールは夕方まで邸内で自由に過ごしていいと言い残し、昼食会に車で向かう。一人残されたジェーンは一糸纏わぬ姿のまま邸内を歩き回り、キッチンでパイを貪り、図書室で本を読み、煙草を吸う。夢のような時間を過ごしていると電話が鳴るのだ。遅刻しているポールへの催促の電話か、もうこの時点でポールは事故死しているのだが。とにかく電話の音で我に返ったジェーンは飾られていた蘭を一輪服の中に入れて二ヴン家へと戻る。
自転車を走らせているさまが爽快。前進する揺れる視界が自由でジェーンの解放感が伝わってくる。
一方で森の中、道を進んでいく視界が霧か何かで白く遮られるシーンがあるのだけれど、俯瞰になると事故にあったポールの車がひっくり返っていて煙が上がっているのだとわかり、表現が上手いなと感じた。
「生まれたときから奪われていた、なくすことはない。それはあなたの武器となる。あなたの強み」
ニヴン家の奥方(オリヴィア・コールマン)からジェーンが掛けられる言葉。
いやいやそんなことないでしょう?何も持たないからといって、失うことがないなんてありえない。持てる者の傲慢、というか鈍さではないか。
「書くしかなかったの」
晩年、大作家となったジェーンが受賞後詰めかける報道陣に答えるため、家のドアを開ける。通りの向こうには、車に寄り掛かった若かりし自分がいて、目が合う。そのときに口にしていた台詞。
脇道に反れるのだけれど、コリン・ファースをはじめとして豪華キャストが集結している本作。晩年のジェーンを演じるのはグレンダ・ジャクソン。彼女を使いたかったのはわかるけれど、あまりに若かりしジェーン(オデッサ・ヤング)の面影がなくて…。尋常ではない苦労があったのか…。変貌しすぎで違和感。
ささやかな幾つかのこと
映像美が際立った本作。そのほか気になったいくつかのことを五月雨式に。
「グッバイ、ジェーン」
ポールは別れ際、そう言うのだけれど、その言い方や表情がこの事故をもしかしたら自殺なのではと思わせる。ただ原作にはあったかな?何にしろたとえ自らの未来に厭世的な気分を持っていたとしても、自殺という選択肢をポールは持たなかったような気はするし、ジェーンとの恋を成就させようなど微塵も思っていなかったと感じる。けして冷たい男というのではなく、時代がそういう発想を持たせなかったのではないかと。
「どちらがディックかフレディか、聞いておけばよかった」
ポールの部屋に飾られていた写真立ての中の兄二人の写真を見てのジェーンのモノローグ。こういう些細な思いは意外とずっと胸の中に残るもの。たとえば守れなかった昔の恋人との約束のように。
「五人だよ」
ポールの死を知った後の二ヴン家当主の言葉。戦争だけでなく今回の事故で上流階級である彼ら三家の息子すべてを奪っていった。コリン・ファースの喪失感。
「四本目は私のものだったのよ、ポール」
冒頭、ポールが子供のころ所有する競走馬を見るのが好きだった話をする。兄弟が一本ずつ所有していて、四本目は誰のだろうと思い「謎」だとする。それを受けてのラストのジェーンの台詞。
とても雰囲気のある言葉だと思うが、それほど意味があるとは思えなかった台詞。どうだろう。
「僕らのために書いてくれ」
ポールは生前ジェーンの観察力を褒める。雪原で馬を見ながらの台詞じゃなかったかな。
「思い出して描写してくれ。君にはできるはずだ。君のために。僕たちのために」だったかな。
メイドになったことでジェーンは観察者としての視点を手に入れたのだ。
しおれた蘭の花
服の間に入れて持ち帰った一輪の花が、夜着替えの時しおれた状態で床に落ちる。ほんの数時間前まではあんなに美しく咲き誇っていたのに。それと対照的に体内から取り出したオランダ帽子(だっけ?)という避妊具には精液がまだ生臭く残っている。
生と死の表現が上手いなあと感心した。
シーツの染み
小説で、抱き合った後のシーツの染みについてやたらと言及されるのが気になった。メイドだからベッドメイキングする立場だからかなとも思ったのだけれど、映像でも染みについてのシーンはあった。なんとなくそんなに気になるのって女性視点なのかと思っていたら、男性作家だったので驚いた。