林檎とポラロイド「彼女は幸せだ。もうこれ以上あなたを忘れなくて済むから」

突然記憶障害になる病が蔓延する世界。
男は治療のためのプログラムに参加する。それは新しい記憶を獲得していくもの。
カセットテープで指示されるミッションを遂行し、結果をポラロイドで撮ってアルバムに記録していく…というギリシア映画。
今年観た映画の中で1番好き

ⒸBoo Productions and Lava Films ⒸBartosz Swiniarski

忘れたいのか、忘れたくないのか、忘れようとしても忘れられないのか。
記憶についてずっと考えてしまう余韻のある作品。

原題はMIla林檎。

多くは語られないので、百人百様の捉え方があると思う。
ひとつの解釈として自分が感じたことを書き留めておく。忘れたくないので。
鑑賞予定のある人は、前情報なしで、予告編すら見ずに劇場に向かうのが最適かと。

主人公の男は本当に記憶障害なのか

鑑賞中、誰しも考えることだと思う。予告編でも「彼は記憶を失っていた」と始まる。
でもところどころ「ん?」となるシーンがあり、私は忘れたふりをしているのではと思った。
病院に運ばれた最初の夜、隣のベッドの男が説明した症状「頭の芯が痛む」と同じ言葉で翌日医師らに自身の症状を告げたり、以前の隣人の飼い犬に出くわした時、自然と名前を呼んで「なんでここに?」と焦って飼い主が来ないうちに逃げたり。

なぜそんなことをするのか

妻の死を受け止めきれなかったから
後半女性の墓参りをした後、以前暮らしていた部屋に戻るとそこは女性の服が壁にかかっていたり装身具がそのままだったり、まだそこに暮らしているかのように思える。
男は服をクローゼットに戻し、キッチンの洗い物を片付け、最後に果物皿の林檎の山から食べられそうなのを手に取ると、いつものようにナイフで剥いて食べ始める。

林檎

男は林檎が好きで、最初から最後まで食べている。シャクシャクとそれはおいしそうな音をたてて食べるのが印象的。
ナイフでカットしたものをそのまま口に運ぶやり方。憧れるけどこの食べ方は、私は怖くてできない。
さておき、予告では記憶を忘れた男が唯一自分が林檎を好きだったことは憶えているとある。最初の病室での夜、隣のベッドの男が「林檎、好きなのか?やるよ」と主人公にくれるのだが、ここのやりとり細かく覚えてない。残念。
新しい記憶を獲得するための新生活に入っても、男は近所の八百屋で林檎を買い続ける。そこで住所を聞かれ、以前の番地を答え、「なんでだろう」と今の番地を言いなおすシーンがある。ここは記憶の有無が分かれるところかな。記憶があるので自然と口をついて出てきた、言い直すのは演技、とも考えられるし、記憶障害は本当で、記憶にむらがあり林檎によって記憶が呼び覚まされたとも思える。
後半、いつものように林檎を選んでいると八百屋にオレンジを勧められる。「林檎は記憶力の低下にも効くのに売れないんだよな」と言われ、男は袋の林檎をすべて戻し、オレンジを買って帰る。家でオレンジを食べるけれどさして食べたくもなさそうな感じ。
ここで林檎をよしたことで、男には忘れたいことがあるのかな、と思う。それが大切な人の死、につながるのだけれど一方でその前にこんなシーンもある。

余命幾ばくもない老人とのやり取り
治療プログラムの一つとして余命僅かな人を探し、見舞い、必要があれば世話をしろ、という課題が与えられる。男は病院に入院中の患者を物色し、とある老人と出会う。
老人の世話は娘がしていて、おばを見舞っているという体の男は、手伝いにまた来ると約束して親交を持つことに。料理上手な男はたぶん自前のスープを病室に持ち込み食べさせているときに、老人には妻がいるが記憶障害で見舞いには来られないでいるということを知る。そのとき男は「奥さんは幸せだ、もうこれ以上あなたを忘れなくて済む」と言う。
つまりこの時点では、男には忘れたくないことがある、ということだ、
次は焼き菓子が食べたいという老人と約束を交わすが、それを持って病室に行ったときはもう老人は亡くなっている。そして葬式に遠くから参加し、ラストの妻の死に向き合うという行動につながっていく。

そういえば、冒頭ゴンゴンという謎の音が響く。同じ時期上映されている『MEMORIA メモリア』の予告でも不穏な音が響いていたので、思わずスクリーン間違ったかと焦ったのだ。
この音はしばらくすると男が壁にごつんごつんと自分の頭を打ち付けていることが分かるのだけれど、これは忘れたいことを頭から追い出そうとしているのではなかったのかな、と思い当たる。

オレンジからやはり最後林檎に戻るのは、忘れられるなら忘れようとしたこともあったけれど、結局は無理に忘れようとしたりしないで、忘れたくない想いと共に生きていこうということかな。

お気に入りの台詞

「幸せだ、もうこれ以上忘れないで済むから」
余命幾ばくもない老人との会話。

「ブラボッ」
入院した際、記憶を回復する治療にあたる担当医の台詞。
2人担当医がいて、患者に簡単なテストをする。例えばジングルベルの曲を流して関係する絵を選べとか。そのとき曲に合わせて身体を揺らしてヒントっぽくしたり、間違えるとちょっと悲しそうにしたり。これは机に並ぶ小箱の中身を覚えているかのテストだったんだけど、男は一つだけしか正解しなかった。けれどその正解がでたとき女医が食い気味に力強く褒めるのがすごくおかしかった。

全体的に男の記憶に関するパートはシリアスなんだけれど、一方で回復プログラムを遂行していくパートはコミカルでバランスがいい。自分よりかなり小さい自転車に乗ったり、ホラー映画を見てポスター横で証拠写真を撮ったり。だんだん突拍子もないことを指令してくるのも。

画面サイズは4:3なのかな。指示がカセットテープで出されたり、全体的な世界観がとても心地よかった

忘れたくもあり、忘れたくもなし。自分の記憶の深いところにしばし降りていく、余韻のある作品だった。
今まで観た好きな映画上位に入ってくると思う。